2023年03月10日
SDカードという大発明: 小さなストレージがハイテク巨人に出会ったとき

2014年、アメリカ国家科学賞とアメリカ国家技術賞の授賞式で、バラク・オバマ前大統領はポケットからサンディスクのSDカードを取り出し、聴衆に見せました
その512GBのカードは、その日メダルを授与されたサンディスクの前CEO Eli Harari(エリ・ハラリ)から前大統領へのプレゼントでした。それは、いかにして家電製品へフラッシュストレージを通してデータが普及していくかを象徴する出来事でした。
それから10年近く経った今でもSDカードの重要性は失われていません。この小さなデバイスは、ゲームから産業用IoTまで、あらゆる所で利用されています。その開発は20年以上前に遡り、日本の大手電機メーカーがコンシューマー市場を席巻しようと画策していた頃、イスラエルのテフェンにある小さなオフィスで始まりました。

フラッシュバック

現在、ウエスタンデジタルで技術評価部門のディレクターを務めるMicky Holtzmanは、当時のサンディスク(現ウエスタンデジタル)がイスラエルに最初に開設したオフィスの技術責任者になるよう打診されたとき、彼は100人のエンジニアを統率していた当時のポジションを捨てて、フラッシュメモリーの将来を信じて賭けに出ました。
それは1996年のことでした。まだフロッピーディスクが数十億枚も販売されていた時代でしたが、その少し前にサンディスクが発売したコンパクトフラッシュに使われたフォーマットにより、フラッシュメモリーはデータストレージ業界に新たな道を切り開こうとしていました。
たった4人のオフィスに加わったHoltzmanは、ドイツのSiemensやフィンランドの携帯電話メーカー大手のNokiaと協力して新たなメモリーカードの規格となる「マルチメディアカード(MMC)」の制定に取り組みました。
「技術屋の観点からすると、MMCや今日のメモリーカードがやっていることは、フラッシュの複雑性や独自性を小さくて単純明確なホストインターフェースの背後に隠すことです」とHoltzmanは語っています。「外から見ると、単に読み書きできるメモリーデバイスにしか見えません。しかし、メモリー上で読み書きし、消去することは決して単純ではありません。データの信頼性を保つには、大きなイノベーションが必要なのです」。
切手サイズのストレージには計り知れない潜在能力がありました。ところがMMCの普及は遅々として進まなかったのです。
ちょうどその時、携帯電話の変革をリードしてきたNokiaは、1999年の映画「マトリックス」に登場して注目を集めたスライダーデザインの携帯電話「Nokia 8000」シリーズを発売しました。しかし、Nokiaに代表される携帯電話業界は、MMCに対応した製品を手がけることに躊躇していました。
この頃、イスラエルのテフェンにあるサンディスクの小さなオフィスに、Yosi Pinto(現ウエスタンデジタルのシニアテクノロジスト)が加わりました。テレコミュニケーション企業でのキャリアを歩んできたPintは、修士課程で専攻したチップデザイナーになることへの志を常に抱いていました。これは彼が夢に描いていた希望の仕事だったので、シニアR&Dマネージャーという地位を捨て、スタートアップの小さなベンチャー企業、サンディスクに飛び込んだのでした。
彼は、嬉々としてMMC製品のASIC(ストレージデバイスの頭脳というべきチップ)の設計技術を短期間に習得しました。

SDカードの誕生

Pintoがこの仕事を初めて1年後に驚くべき企画が舞い込んできました。エレクトロニクスの大手である東芝とパナソニック(当時:松下電器産業)からの提案で、サンディスクが誇るMMCの知見に基づく新たなメモリーカードの設計を主導して欲しいという依頼でした。現行製品より堅牢な設計、高速化、そしてセキュリティ機能などの向上を目指した開発です。
HoltzmanとPintoは、東芝とパナソニックに会うために米サニーベールへと飛び立ちました。「会社の誰もこのミーティングのことを知りませんでした」とPintoは話しています。「私たちは、誰に会うのか、なぜ会うのかを話すことを止められていたのです」。

Yosi Pinto

この時代、日本は家電製品のメッカでした。東芝とパナソニックは、ライバルのソニーが自社製品用に独自のメモリースティックを開発していることを知っていました。サンディスクと組むことは、絶妙な協力体制で、優位に立つ好機の到来でした。
「あの時は本当に大変でした」とPintoは語っています。「ベイエリアのミーティングに飛んだ翌日にはイスラエルに帰国し、仕事に戻りました。こんな小さな会社が日本を代表する世界的超有名企業とタッグを組んでこのプロジェクトをやり遂げようとしたのです」。
HoltzmanがまだMMCの改良に取り組んでいた頃、Pintは最初のSDカードの技術革新を先導し、カードコントローラのチップ設計に没頭していました。彼は、最初のSDカード仕様書の主筆になりました。
Pinto、Holtzmanおよびサンディスクの元エンジニア数名は、SDの基本特許を数多く取得することに貢献しました。パナソニックは、MP3プレーヤーの登場を想定して、デジタル著作権保護に関するセキュリティ要件を推進しました。東芝とパナソニック。この巨大電子機器企業2社は、豊富な消費者体験の知見に裏付けられた、堅牢で扱いやすい製品を設計しました。
「東芝とパナソニックの社員が大挙してイスラエルにやって来ましたが、私たちが驚嘆する程に薄いハイテクノートPCを常に携えていました」とPintoは回想しています。
Pintoは、日本で20人ものエンジニアを抱えたチームがプロジェクトの開始を待ち構えていることを知った時、米国では、自分とバックエンドのエンジニアひとりしかいないと冗談半分に言ったのです。すると日本の担当者は、自分たちが支援すると申し出てくれました。
「彼らは私たちに、部屋を準備して彼らが知るべきことを教えて欲しいと言ったのです」とPintは語っています。その数週間後に、Pintoは5人の新しいエンジニアのマネージャーになり、厳しい言葉の障壁を乗り越えていきました。

幅広い用途のパッケージ

Pintoはチップ設計を完成させる一方で、日本のエンジニアにSDインターフェースのフロントエンドブロックを教え、パナソニックと東芝が自社のコントローラを開発できるようにしました。
スタートしてからわずか1年後には、8メガバイト(MB)と16MBという大容量のSDカードサンプルが日の目を見ることになりました。その後すぐに、3社すべてが32MBと64MBをサポートするSDカードを市場に送り出しました。
「東芝とパナソニックは、私たちが開発したカードが何であれ、それをサポートする製品をすぐにリリースすると約束してくれました。そして、実際にその通りにしてくれたのです」とPintoは述べています。
「それが世界を変えました」とHoltzmanは話しています。「私たちが市場にもたらした新製品こそ、実現するために不可欠なモノ、まさに“イネーブラー”でした。これを使用することで、これまで不可能だった新たな製品が誕生しました。これがなければ、小型のデジタルカメラは存在しませんでした。スマートフォンだってそうです」とHolzmanは述べ、彼のオフィスにあるSDカードによって生まれたガジェット類を指さしました。
多くの企業が続々とSDカードを採用する一方で、数十年におよぶことになるメモリーカードフォーマット戦争が勃発したのです。富士フイルムやオリンパスのxDピクチャーカード、インテルのミニチュアカード、さらにはソニーのメモリースティックなど、SDカードが普及するにつれ、さまざまなフォーマットが現れては消えていきました。

サンディスク最初の8MB SDカードサンプルの中身(左)と、最初に市場にリリースされたサンディスク64MB SDカード

SDカードが普及したのは単なる偶然ではありませんでした。2000年になると、サンディスク、東芝、およびパナソニックは、家電製品を簡素化するためのメモリーカードの規格を策定するSDアソシエーション(SDA)を設立しました。約800社の企業が加盟するまでに成長した同団体は、アプリケーションや消費者の要求に応じて新機能が SDカードを採用するのを支援しました。
その仕様を逐一挙げるとキリがないのですが、Wi-FiやBluetoothなどのI/O機能から、セキュリティ機能、最新のSD Expressカード(PCIe®/NVMeTMインターフェースの追加を誇る)が実現した容量とバス速度の果てしない向上などが含まれています。
SDカードは幅広い用途のパッケージであることが証明されました。
「この20年間で、多くのものが現れては消え去り、また完全に姿を変えたりしましたが、この製品は何とか生き残ることができました」とPintoは述べています。Pintoは、10年近くにわたりSDアソシエーションの会長に選出されており、現在でもウエスタンデジタルのSDカード開発に密接に関わっています。
今では、世界初の1TB microSDカードの提供や、間もなく発表されるであろう、さらに大容量の製品を含め、同社の数百人ものエンジニアが小型ストレージデバイスの限界に挑戦しています。

世界を変える

100件近い特許を自ら取得しているPintoは、SDカードの影響は技術的なものを超えていると考えています。「そもそもSDカードは、宇宙空間向けの最先端技術開発や、ネットワークの奥深くにある複雑なチップとは無縁でした」と彼は述べています。「ただ市場に新しいものを投入したら、最終的に誰もが使い始めたのです」。
PintoがSDカードを初めて目にしたのは空港でした。その後、彼はさまざまな店舗でそれに出くわし、最後には彼が住んでいた小さな町の小さな写真屋でも見かけるようになりました。
Eli Harariは、アメリカ国家技術賞を受賞した日に次のように語っています。「世界を変えると言うのは簡単ですが、実行するのはとても難しいことです。ひとつのテクノロジーを非常に費用対効果が高く、非常に手頃な価格にし、その恩恵を何十億もの消費者に届ければ、それは情報や知識が民主化するということになります。情報とは知識です。それは人々に活力を与えるものなのです」。

著者:Ronni Shendar Ronni Shendar
※Western Digital BLOG 記事(SEPTEMBER 29, 2022)を翻訳して掲載しています。原文はこちらから。

戻る